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東京鐵骨橋梁100年のあゆみ(100年史ダイジェスト版)

技術報創業100周年を機に、これまで歩んできた足跡と、手掛けた鉄骨・橋梁の記録を100年史としてまとめました。
その内容をコンパクトにし、時代のエピソードなどを織り込み再編集したのが、このダイジェスト版『東京鐵骨橋梁100年のあゆみ』です。 気軽な読み物として、お楽しみいただければ幸いです。

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タイトル  
第1章 1914-1927
(大正3年~昭和2年)
清水組の鉄工部門として深川で創業 PDFダウンロード
第2章 1928-1945
(昭和3年~昭和20年)
合資会社東京鐵骨橋梁製作所の設立 PDFダウンロード
第3章 1946-1954
(昭和21年~昭和29年)
鉄骨・橋梁製作の地盤を固めて PDFダウンロード
第4章 1955-1963
(昭和30年~昭和38年)
高度経済成長の序章 PDFダウンロード
第5章 1964-1970
(昭和39年~昭和45年)
国土近代化の追い風を背に PDFダウンロード
第6章 1971-1978
(昭和46年~昭和53年)
成長基盤の確立
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第7章 1979-1988
(昭和54年~昭和63年)
逞しい成長の軌跡を描いて
PDFダウンロード
第8章 1989-1996
(平成元年~平成8年)
旺盛な橋梁・鉄骨需要を背に受けて PDFダウンロード
第9章 1997-2005
(平成9年~平成17年)
苦境のときを迎えて
PDFダウンロード
第10章 2006-2014
(平成18年~平成26年)
再生の道筋そして未来へ PDFダウンロード
当社の工事実績 橋梁編・鉄骨編 PDFダウンロード

PDFファイルをご覧いただくには、アドビシステムズ社が配布しているAdobe Reader(無償)が必要です。

『100年の思い出アルバム』

当社がこの世に生まれた今から100年前の大正3年は、まさに激動の年でした。まだお屠蘇気分が抜けきらない1月12日に桜島の大噴火が始まりました。その噴煙は、上空8,000メートルにも達し、流れ出る溶岩で桜島は大隅半島と陸続きになったといいます。そして、この年には第一次世界大戦が起こり、当社創業の月である8月には日英同盟に基づくイギリスの要請で日本は参戦を決断することになります。
そうした時代に、後に清水組(現在の清水建設)の社長となる清水釘吉翁の発案で、清水組(当時は、まだ清水満之助本店)博多支店が鹿児島に建設していた山形屋呉服店の鉄骨を桜島の噴煙が立ち上る現地で加工製作していた鍛冶屋のチームは、東京の深川に呼び寄せられます。そして、その地にあった清水満之助本店深川工作場の一角に「鉄工所」を開設することになりました。それが、当社の始まりです。

深川工作場(昔) 深川工作場(現・東京木工場)(現在)
深川工作場(鉄工所)(昔) 鉄工所があった場所(現・東京木工場)(現在)

「深川工作場」は清水建設東京木工場となり現在に至りますが、当社は仕事を展開していくうえで広い敷地を求めて東京の芝浦に生産の場を移すことになります。
生産拠点を徐々に芝浦に移していき、生産体制がある程度整ったのは1923(大正12)年の6月のことでした。
ようやくこれからという折りの同年9月に発生したのが、関東大震災でした。京橋にあった当時の清水組本店や当社創業の地である深川工作場は全焼しましたが、幸いにして当社の芝浦の工場には大きな被害がありませんでしたので、生産を一時中止し、清水組の復旧資材の集配所や被災者の収容所として利用していただきました。

震災直後(写真提供:土木図書館) 震災直後・銀座(写真提供:土木図書館)

その後、のちに「お化け煙突」として有名になる千住火力発電所の工事や日本初のラジオの本放送が行われた愛宕山の東京放送局無線放送鉄塔工事などに携わり、帝都復興に微力ながら尽くすことが出来ました。特に千住火力発電所は完成を急いでおり、芝浦の工場だけでは間に合わず現地の河岸に応急的に仮工場を建てて昼夜二交代制の突貫工事を行ったようです。

東京電灯(現・東京電力)千住火力発電所(建設中) 東京電灯千住火力発電所(竣工)
 
東京中央放送局(現・NHK放送博物館)(竣工)  

1926(大正15)年から鉄骨にとどまらず、橋の設計・製作にも手を染めるようになりました。橋梁の仕事を請負うようになってから初めての本格的な工事といえるものが、池上線五反田駅乗換跨線橋です。それから90年近くが過ぎた現在も山手線五反田駅のホームから、その姿を仰ぎ見ることができます。

五反田駅跨線橋(架設中) 五反田駅跨線橋(架設中)

大正12年に携わった品川区荏原にある星薬科大学の講堂も現存する建物です。また、1921(大正10)年に当社も携わらせていただき、「片倉館」の名で親しまれていた片倉工業の本社ビルも、つい最近まで京橋に現存していました。
当社が携わった橋や建物を修繕・改築などを施して長く大事に使っていただけますと、工事に関わった多くの者たちの労苦が報われる思いがいたします。
余談となりますが、この片倉工業という会社は、2014年6月、富士山に続いて世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸場を長年にわたって維持管理していた会社です。

現・星薬科大学講堂(竣工)

片倉製糸紡績本社増築
(写真提供:清水建設(株))

当社が、名実ともに清水建設の手を離れて独立したのは、1928(昭和3)年2月のことでした。「合資会社東京鐵骨橋梁」の誕生です。しかし、その船出は平坦ではなく荒波の連続でした。翌年、親方請負制度の撤廃を端に発して二月(ふたつき)にわたる労働争議が起きたかと思えば、世界恐慌から始まる不況の影響で、長期にわたって従業員全員が減給措置に耐え忍ぶこととなります。生産量も落ち、労働争議も起きるという悪循環の連続でした。

芝浦工場(昭和3年)

清水組芝浦鐵工所(大正11年~昭和9年)

労働争議(ストライキ) 東京鐵骨橋梁製作所芝浦工場(昭和10年代前半)

満州事変から日本は軍需を中心とした内需拡大を図ったことが功を奏し、景気に回復の兆しが見え始め、当社も1934(昭和9)年頃に減給措置を廃止し、やがて元の状態に戻りました。
芝浦の工場も規模を拡張し、設備を徐々に整え、順調に生産量を増やしていきました。しかし、1938(昭和13)年になると国家総動員法が制定され、一気に戦時体制が強まっていきます。翌年には欧州で第2次世界大戦が勃発し、やがて日本も太平洋戦争に突き進んでゆくことになりますが、それにつれて当社では軍需関係の仕事が多くなってきました。戦闘機増産を図るために計画された中島飛行機製作所太田工場の拡張工事は鋼重が1万2,000トンにものぼり、これは戦前に1社が請負った鉄骨量としては国内最大のものでした。

そして、1941(昭和16)年には時代に抗(あらが)うことはできず、とうとう当社芝浦工場は相模陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)の管理工場となってしまいました。

軍需工場を造るかたわら手掛けたのは上陸用舟艇の製作でしたが、当社にはノウハウがなく造船会社の教えを乞うなどの大変な思いをして、材料もままならない中、何とか5隻を造りました。しかし、進水に至らぬうちに終戦となり、アメリカ軍が来る前にと、苦心して造り上げたものを断腸の思いで解体したそうです。
終戦を迎えた時点で、やるべき仕事は何もなくなり、給料を支払えるメドもつかなくなり、当社はやむを得ず120人ほど在籍していた工場作業員を全員解雇することになりました。戦時中に苦楽を共にした作業員が離ればなれになることが耐え難くて、当時の芝浦工場の工務部長は工場内の稲荷神社の前に作業員全員を集めて、苦渋の決断を目に涙を浮かべながら伝えたといいます。

上陸用舟艇・製作中

上陸用舟艇

1946(昭和21)年の年明け早々に、芝浦の第3工場はGHQによって接収されました。接収された工場は食糧倉庫となり、その中には小麦粉が蓄えられました。食糧難の時代であり、会社は従業員のために少しでもよいので分けてもらえないかと交渉しますが、当然のことながらGHQは交渉には応じてくれませんでした。なお、第3工場の接収が解除されたのは、それから6年後の1952(昭和27年)6月のことでした。

1948(昭和23)年10月、合資会社から株式会社に組織変更いたしました。ひとり立ちしたその姿を一目(ひとめ)なりとも見ていただきたかった創業者の清水釘吉翁は、残念なことにそのわずか一月(ひとつき)前に帰らぬ人となられておりました。

朝鮮動乱特需で1949(昭和24)年以降、受注工事の規模も少しずつ大きくなってきました。
ブリヂストンビルは戦後建てられた最初の本格的なビルで、当社にとっても戦後初の大規模な鉄骨工事となり、月産600tを達成して従業員には奨励金が出されたという記録が残っております。この建物も2015年5月には解体工事が始まりました。時代の流れとはいえ、古い時代の建物が消えていくのは寂しい思いがします。

展覧会の告知と閉館のお知らせ

ブリヂストンビル(現在)

歌舞伎座は、戦災でその大部分が焼失するという被害を受けましたが、特別許可が下りて復旧工事が行われることになりました。当時の当社はトラックを保有していなかったため資材は馬車で運んでおりました。そんな時代に、米軍から25tトレーラーに満載した鋼材が支給されて、とても驚いたと記録されています。そののち歌舞伎座は建て替えられることになり、当社は2011(平成23)年に新しい歌舞伎座のタワー部分の鉄骨工事を受注しています。

歌舞伎座劇場復旧(竣工)
(写真提供:清水建設(株))

歌舞伎座(ロボット溶接作業)取手工場

歌舞伎座タワー(GINZA KABUKIZA)
(写真提供:松竹(株)・(株)歌舞伎座)
歌舞伎座タワー(GINZA KABUKIZA)
(写真提供:松竹(株)・(株)歌舞伎座)

また、江の島展望灯台工事(当社分152t)も当社にとって縁の深い建物です。元々は読売遊園(後の二子玉川園)に隣接した多摩川べりに日本初の落下傘訓練塔として建設されていた塔で、1950(昭和25)年に観光用として江の島に移築されました。
なお、当社は2002(平成14)年の江ノ島電鉄開業100周年を記念した建て替え工事にも参加しております。

現・江の島展望灯台(建設中)

旧・江の島展望灯台(写真提供:清水建設(株)) 「江の島シーキャンドル」の名で親しまれている
現・江の島展望灯台(写真提供:清水建設(株))

そして当社が後に「丸の内庁舎」と呼ばれることになる有楽町にあった旧東京都本庁舎の鉄骨工事に携わったのは1953(昭和28)年のことでした。時代は移り、当社は1988(昭和63)年に「東京都第一本庁舎」の鉄骨工事にも関わっています。

旧・東京都庁舎(竣工)

東京都第一本庁舎(建設中)

東京都第一本庁舎(建設中) 東京都第一本庁舎(現在)

東京の玄関口、東京駅の八重洲口新駅舎ビルとしての機能を持つ鉄道会館もこの時代(1930年代)を代表する工事の一つでした。民間資本を活用して建てられた「駅ビル」の走りで、大丸百貨店を入居テナントとしており、この工事は当社にとって初めての「共同企業体」としての受注工事でした。


鉄道会館(竣工)

2014(平成26)年の春先に話題となった橋がありました。それは、夕張市のダム湖に架かる全長381mの世界的にも珍しい三弦トラス橋で、北海道開発局札幌開発建設部から1956(昭和31)年に当社が受注した「三弦橋」の名で親しまれた橋のことです。この橋が文字通り地上から姿を消したことで話題となったのです。ダム(夕張シューパロダム)の底に水没したのです。新しくできるダムが古いダムを呑み込むように水没させるというのは極めて異例なことなのだそうです。水没した鉄道の付け替え部分(延長10㎞余)に架けられた橋が水没するのですから、なにか皮肉な運命を感じます。

三弦橋(架設完了)

三弦橋(沈むところ)

この翌年の1957(昭和32)年、当社の分岐点の一つとなる「蒲田跨線橋」を受注します。この工事は架設時の安全対策で揉めましたが、担当者が東京都と国鉄(現JR)との間に入って1年がかりで粘り強く交渉した結果、受注から4年後に無事、架設を完了することが出来ました。

蒲田跨線橋(仮組立)

蒲田跨線橋( 架設中)

戦後初めての大規模な海外工事となったのが、アルゼンチン・ミクスター製鉄所新築工事(当社分2,460t)でした。三菱商事から1958(昭和33)年に受注した工事で、同業者10社を代表して当社が現地の技術指導を行いました。


アルゼンチン・ミクスター製鉄所(建設中)

1958(昭和33)年には芝浦工場内に3階建ての本社ビルが建設されます。


本社(3階建て)

1955(昭和30)年から8年にわたり、神武景気、そして岩戸景気と呼ばれる2度の大きな好景気の波が我が国に訪れます。昭和31年には日本道路公団、昭和34年に首都高速道路公団、更に昭和37年には阪神高速道路公団が設立され、大型の橋梁案件が次々と発注されるようになりました。また、日本経済のカンフル剤となったものに、1964(昭和39)年開催の東京オリンピックがありました。戦後復興を成し遂げた日本の姿を世界中にアピールする機会ともなることから、交通網をはじめとする各種のインフラ整備が国を挙げて行われました。

また、この昭和30年からの10年ほどの時代は、競争設計が全盛の時代であり、当社の設計陣にとっては連日残業続きの時代でもありました。
当社も首都圏の街並みを構成する高層ビル、そして首都高速道路をはじめ、東海道新幹線や東京モノレールなどの多くの仕事をいただき、昭和39年には東京オリンピック関係街路築造事業の施工に関して東京都より感謝状を頂戴しました。

117工区(首都高速道路公団)(架設中)

モノレール羽田-浜松町間第8工区鋼桁
(写真提供:清水建設(株))

1962(昭和37)年、芝浦工場に続く新天地と期待した東雲工場が本格的な稼働に至らない中で、「橋梁部門の拡大強化には工場の整備が必要」との考えから、東雲に代わる新たな工場用地の入手を急ぎました。いくつかの工場候補地の中から茨城県の取手に約11万4,000㎡の土地を購入しました。翌1963年4月に取手工場の最初の一部分が完成しますが、最初の構想にあったものが完成するまでには、それから約10年の時を要することになります。

芝浦工場(現寸場)(1962年)

取手工場・建設当初(1963年)

1961(昭和36)年の建築基準法の一部改正で、特定街区での高さ制限が撤廃され、そののち容積率に関する改正もなされ、建築物は高層化・超高層化の時代を迎えます。
当社における高層ビルの第1号は、1964(昭和39)年受注の第一生命保険相互会社の大井町本社(神奈川県足柄上郡)でした。当時としては珍しかった本社機能の郊外移転が話題を集めたビル(地上18階建て・高さ79m)でした。そして、1966(昭和41)年に受注したのが霞が関ビルディング(地上36階建て・高さ147m)で、日本で初めて100mを超える「超高層ビル」となりました。当社は、このビルの超高層部分である30階から屋上までの施工を担当しました。

 
第一生命保険相互大井町本社(建設中)  

霞が関ビルディング(建設中)

霞が関ビルディング
(写真提供:三井不動産ビルマネジメント(株))

更に1970(昭和45)年には、後に西新宿の高層ビル街の一角を担う高さ170mの京王プラザホテル、そして大手町丸ノ内地区では初めての超高層ビルとなる高さ110mの朝日東海ビルの新築工事も受注し、超高層ビルの建築が華やかな時代へと向かっていきました。

京王プラザホテル開業当初
(写真提供:京王プラザホテル)
京王プラザホテル(建設中)

朝日東海ビル(建設中)

朝日東海ビル(竣工)

1965(昭和40)年、阪神高速道路公団から大阪環状線の福島駅そばに架かる福島第一高架橋を単独1社で受注しました。この複雑な構造を持つ難工事を苦心の末に完成させたことが認められ、第2回土木学会田中賞の作品部門を受賞しました。

福島第1工区高架橋(作業現場) 福島第1工区高架橋(架設完了)

また、この時代には皇居新宮殿・帝国ホテル本館・浅草寺五重塔・総持寺(西新井大師)三門などの歴史的な建造物の工事にも関り、社員一同の誇りとなっています。

1972(昭和47)年、ちょうど半世紀にわたって芝浦に構えていた工場を閉鎖して、工場を構えてから10年が経過して概(おおむ)ね設備が整ってきた取手工場に集約することとなりました。
また、同年11月には、芝浦に6階建ての本社ビルが完成しました。


本社新社屋完成(昭和59年撮影)

1975(昭和50)年に当社が発表したのが「テックブリッジ」です。1962(昭和37)年に開発された「折畳組立式鋼橋材(通称「O橋」)」が原型となる応急橋で、業界に先駆けた製品でした。災害復旧用はもとより橋梁架け替え時の迂回(うかい)路用などに使われ、のちには国土交通省の備蓄橋梁としても採用されております。


佐久橋仮橋(1975年)

1970(昭和45)年には本州四国連絡橋公団が設立されておりましたが、様々な経緯の末、それから数年が経過した1975(昭和50)年8月に「1ルート3橋」の凍結解除が決まりました。
それを受けて、本州四国連絡橋の受注に備えるため、昭和51年に橋桁の海上輸送が可能な岸壁を有する生産拠点として山口県防府市に工場(防府工場)を設置しました。


当社 防府工場(開設直後)

1979(昭和54)年、当社は「本四架橋」では初めての案件となる因島大橋を受注しました。当時、因島大橋は東洋一の長さを誇る吊橋であり、その補剛桁の部分を4社JVで受注したのです。

因島大橋(架設中) 因島大橋(竣工)

1985(昭和60)年、千葉臨海工場の建設に着手しました。時代の趨勢から、鋼構造物の巨大化などにより海上輸送に対応できる東京湾に埠頭を有する工場が必要となったのです。


千葉臨海工場(起工式)

1988(昭和63)年に東京急行電鉄から受注した池上線戸越銀座~旗の台駅間の立体交差切り替え工事で、STRUM工法を用いた第一号の工事が実施されました。


池上線・戸越銀座~旗の台駅間の立体交差(東京急行電鉄)(切り替え中)

ストラム工法とは、工事区間内の線路を工事桁で仮受けし、その直下(直上)に計画線の軌道を敷設して一夜にして切り替えを行うという東京急行電鉄・東急電鉄・当社の3社の共同開発による急速施工法です。2013(平成25)年に大きな話題となった東横線渋谷~代官山間の地下化工事は、このストラム工法を使用したものです。


東横線・渋谷-代官山間地下化工事 2013年(東京急行電鉄)

時代は平成に移り、未曾有の好景気を背景に大小さまざまな開発プロジェクトが誕生し、「臨海部副都心開発基本構想」という華やかな首都改造ビジョンが描かれました。
この構想の一環として計画されたのが、都心部と副都心を結ぶ「東京港連絡橋」、すなわち現在のレインボーブリッジです。吊橋部の施工は5JV(全14社)に分かれて発注され、当社はJV(共同企業体)として平成元年に補剛桁の半分などを受注しました。そのほかの周辺部工事も合わせると9つの工事を受注し、合計鋼重1万5,000t以上の工事を施工しました。

レインボーブリッジ(架設中) レインボーブリッジ(現在)

地上70階建て・地上高さ296mの横浜ランドマークタワーを受注したのは1990(平成2)年のことでした。東京都庁を一気に50m追い抜いて当時国内一の超高層ビルとなりました。それから高さ日本一の座を2014(平成26)年まで保っていましたが、残念ながら「あべのハルカス」に4mほど抜かれてその座を譲ることになりました。

横浜ランドマークタワー(建設中) 横浜ランドマークタワー(現在)

一方、神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ東京湾アクアラインでも、当社は関連工事として1990(平成2)年には木更津市の沖合に位置する最も背が高い橋脚に、1992(平成4)年には橋長1,108mの連続鋼床版箱桁に、それぞれJVで携わりました。そして、1996(平成8)年には「風の塔」の名で知られる川崎市沖合の人工島の換気塔に携わりました。

東京湾アクアライン 橋梁部
(写真提供:東京湾横断道路(株))
東京湾アクアライン P7橋脚(建設中) 東京湾アクアライン 川崎人口島換気塔(風の塔)

愛媛県に位置する来島海峡大橋は、世界初の3連吊橋でした。当社は1993(平成5)年にもっとも高い主塔を持つ第三大橋の主塔工事をJVで受注し、1995(平成7)年には橋長1,270mの第二大橋の補剛桁をJVで受注しました。

来島第三大橋(主塔) 来島第二大橋(補剛桁)(架設中)

そして1993(平成5)年には、本四架橋の中でも最大の工事となった明石海峡大橋が発注され、当社は神戸側中央径間の補剛桁(その2)工事をJVで受注しました。補剛桁全体は4工区に分けて発注され、合わせて20社が携わることになりました。

明石海峡大橋・開通直後
(写真提供:本州四国連絡高速道路(株))
明石海峡大橋・開通直後
(写真提供:本州四国連絡高速道路(株)
明石海峡大橋・開通直後
(写真提供:本州四国連絡高速道路(株))

伊勢湾岸自動車道が名古屋港周辺を通過する位置に計画されたのが、のちに「名港トリトン」の愛称で知られることになる名港三大橋です。3橋の長大斜張橋ですが、当社では1992(平成4)年に名港中央大橋の西主桁を、1995(平成7)年には続いて名港西大橋の東主桁を、共にJVで受注しました。

名港トリトン 名港トリトン

1995(平成7)年1月17日の早朝、淡路島北部を震源地とするマグニチュード7.3の地震が発生し、兵庫県南部を中心に甚大な被害がもたらされました。当社施工の橋梁で落橋は見られなかったものの、前年に竣工したばかりの夙川工区では橋脚位置が動き、支承が分離破壊するといった被害が見られたほか、同路線の深江浜工区でも大きな損傷があったことから、当社は阪神高速道路公団からの要請を受けて応急的な復旧作業に奔走しました。
鉄道関係の復旧工事としては、東海道新幹線の高槻付近のRC橋脚や、山陽新幹線西明石駅のホーム桁・軌道桁の修復などに取り組んだほか、東海道本線で大きな被害を受けた石屋川付近や六甲道駅の復旧工事にも力を注ぎました。

地震発生の時間で止まった時計
(写真提供:神戸市)
3号神戸線(東灘区深江本町)
(写真提供:神戸市)
国道43号線岩屋交差点付近
(写真提供:神戸市)
曲がりくねった線路
(写真提供:神戸市)

これらと並行して4月には、阪神高速3号神戸線の復旧工事が橋梁メーカー各社に発注され、当社は横転したコンクリート桁の区間に隣接する芦屋市の復旧第6工区と、大火災の惨状が伝えられた神戸市長田区の復旧第20工区をそれぞれJVで請負いました。「全面復旧まで3年間ほどかかるだろう」と考えられていましたが、早期の復旧を望む被災地の期待は大きく、現場を預かる社員や作業員の奮闘もあって、1996(平成8)年9月末に3号神戸線は震災から1年9ヵ月足らずで全面開通となりました。

復旧第6工区 (復旧作業中) 3号神戸線復旧20工区・湊川JCT(復旧開始)
3号神戸線復旧20工区・湊川JCT(復旧後) 湊川JCT付近(現在)

なお、この地震では当社の社員が1人亡くなっています。当社が幹事会社を務める灘川橋の設計担当として先乗りしていた技術者で、宿泊先の建物の倒壊によるものでした。その後、彼が担当することになる予定であった灘川橋は残されたメンバーの頑張りで無事完成し、1998(平成10)年に土木学会関西支部技術省を受賞することになります。


灘川橋(本州四国連絡橋公団)

震災がらみでいえば、当社は2011(平成23)年の東日本大震災においても、阪神淡路大震災と同じく様々な場で社会貢献となる復旧工事などの仕事をしております。

東日本大震災(津波)仙台市若林区
(写真提供:仙台市)
東日本大震災(津波の跡)仙台市若林区
(写真提供:仙台市)
津波と津波火災被害状況(岩手県山田町)
(写真提供:(財)消防科学総合センター)
東日本大震災(被害の跡)

当社が本社工場を構える茨城県では、この震災で日本国内の湖沼の面積で琵琶湖に次ぐ広さを持つ霞ケ浦の一部をなす北浦に架かる国道354号の橋が落橋しました。1968(昭和43)年竣工の鹿行大橋(札橋)です。以前から老朽化と幅員の狭さ、そして耐震性の問題などにより早期の架け替えが要望されていました。実際に2008(平成20)年完成を目指して新橋の計画が進行しておりましたが、用地買収がなかなか進展しなかったため、2002(平成14)年に工事が中断してしまいました。2007(平成19)年に5年ぶりで工事が再開し、2013(平成25)年の開通予定で工事が進められている最中に震災が起こってしまい、旧橋の落橋につながってしまいました。2014(平成26)年3月に出された落橋の原因調査結果で『設計の約1.5倍の地震力を受けたことにより、鋼管杭の溶接部が破断。下部工が倒壊したことにより上部工が落橋した』と結論付けられました。しかし、落橋の原因がわかったからといって失われた一人の尊い命は戻ってきません。

左:現鹿行大橋(工事中断中) 右:旧鹿行大橋

旧鹿行大橋 旧鹿行大橋(落橋直後)

新しい鹿行大橋は、予定を約1年前倒して震災から1年後の2012(平成24)年4月に完成しました。


鹿行大橋(現在)

その他にも多くの橋の復旧工事に携わっていますが、2011(平成23)年3月12日に福島第一原子力発電所で起きた水素爆発事故によって崩落した1号機原子炉建屋の屋根を覆うカバーリング工事(横46.9m×縦42.3m×高さ54.4m)のような橋以外の仕事にも関っています。延4万人が携わったといわれるこの工事は、震災直後から工場で鉄骨部材を作り、6月13日より小名浜港で部材の仮組立を実施し、8月10日より1号機周辺での設置作業を開始し、10月14日に完工しました。

福島第一カバーリング 福島第一カバーリング

カバーとフィルターを付けたことによって、放射性物質の放出量は約100分の1になったといいます。
放射能物質が拡散しないように「応急処置」として付けられたカバーでしたが、内部の燃料を取り出すために2015(平成27)年5月15日より解体作業を始めました。カバーの解体後、原子炉建屋内部に残っている瓦礫を取り出して、格納容器に溶け落ちた燃料の取り出す作業を始めることになりますが、この工程には少なくとも約4年という歳月がかかるそうです。

このように多くの人々に愛され、長年にわたって利用される橋や建物を専業として造り続けてきた100年でしたが、これからも末永く、人々の役に立つものをつくり続けていきます。

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